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人物クローズアップ

第7回[東海道]    
『城下町掛川を築いた戦国武将山内一豊やまうちかづとよ(*1)
天文十五年〜慶長十年
(1546−1605)
99/9/15

山内一豊画像
(財)土佐山内家宝物資料館蔵

下克上の戦国時代、信長、秀吉、家康の天下取り。山内一豊は、この三人の権力者に巧みに仕え、権力闘争を乗り切った戦国武将です。その武勇よりも妻千代の内助の功が広く人々に知られ、決して派手ではないこの武将の一生は、掛川の今日と深いつながりがあります。

7-1. 遺児から戦国の乱世に

山内一豊は、天文十四(1545)年(*2)、但馬守藤原盛豊の第二子として尾張の国に生まれました(幼名辰之助)。父盛豊は、二分していた織田家の信安方に仕え、家老となり葉栗郡黒田城を預けられていました(年号不明)。弘治三(1557)年七月、尾張黒田の居城が夜討ちに遇い、父盛豊が手傷を負い(*3)、長兄十郎は討死。当時13歳であった辰之助は、母や弟妹達と家臣に救われ難を逃れましたが、永禄二(1559)年、織田信長の岩倉城攻めで父盛豊死去により岩倉も追われ、織田浪人として流浪の中に時を過ごしたといわれ、山内家の親戚に身を寄せては転々とします。この苦難に満ちた永禄二年、辰之助は元服して通称を伊(猪)右衛門、一豊と名乗ることになりました。

*1:『山内家史料一豊公記』に従う。「かづとよ」は「かつとよ」とも。
*2:十五年説有り
*3: この時討ち死にしたとの説もある。

 

 

7-2.朝倉攻めの武勇 −信長家臣時代−

翌永禄三(1560)年、桶狭間の戦いで信長が頭角を現しました。『山内家史料』にも永禄四年から天正元年の史料が欠けているため明らかではありませんが、一豊は、身を寄せた牧村政倫が織田の家臣となった永禄十(1567)年から元亀年間に至る間に、信長に仕えるようになったといわれています。『一豊公御武功御伝記』や『近代諸士伝略』などの書物に、次のような武勇が伝えられています。

元亀元年三月、織田信長の上洛に従い、四月二十日朝倉義景征伐のために京都を出立して、羽柴秀吉配下として一豊もこれに従軍。金ヶ崎の合戦において、強弓をもって織田軍勢を追撃する朝倉軍に先頭に立って進んだ山内一豊は、敵の矢を受け左眥(まなじり・目じり)から右奥歯に貫通する深手を負いながら、槍を振るって立ち向かい、朝倉一門の大剛三段崎勘左衛門を組みしいた。しかし顔の重傷と疲労困ぱいのため、首級をあげる気力を失って呆然としているところを友人で見方の兵将大塩金右衛門が通りかかって首を打ち落とし、「加勢したまでで手柄は貴殿のもの」と言いおいて先へ進んだ。

この手柄により、秀吉に与えられた領国の一部である唐国二百石を信長から与えられたのが、山内一豊戦国武将としてのスタートでした。

 

御天守閣台石垣芝土手崩所絵図
掛川市教育委員会蔵
mark名所図絵/掛川城へ

7-3.掛川城と城下町の大都市整備に着手−秀吉家臣時代−

天正十(1582)年、本能寺の変で信長が倒れると、跡を継いだ豊臣秀吉は、天正十八(1590)年の小田原征伐において後北条氏を滅ぼし、天下統一を果たしました。家康は関東へ移封され、家康の旧領には秀吉配下の大名が配置されました。
一豊は同年九月二十日、正式に相良.榛原三万石余、佐野郡内二万石、計五万石を領地すべき朱印状を得、掛川城に入城しました。時に一豊46歳のこと。秀吉にとって天下統一を強固なものにするために、掛川は大井川をひかえて東西勢力の真ん中に位置する戦略的拠点です。この掛川をおさえ徳川を牽制するには、今川・徳川・武田の兵乱によって荒れ果てた掛川を軍事的、政治的に強固な拠点につくりあげる必要がありました。そこで秀吉は、伏見城建築に携わった経験のある一豊を配置し、大規模な城郭と城下町づくりを指示したのです。
秀吉の命を受け赴任した一豊は、徳川おさえの基盤づくりとして、掛川五万石の規模にしては大規模な本格的都市計画を実行します。それまでの朝比奈氏や石川氏時代の城郭に大規模な修築を施し、天守閣の築造、総堀の完成など、近世城郭として城の大規模化を図りました。一豊の計画は城郭だけにとどまらず、城下町の整備も大々的に取り組みます。この頃、秀吉が行った兵農分離や兵商分離発令により、人々の生業が定着した時代で、これに従って職業別に町割りを行って城下町を形成しました。その名残りは現代の町名にも見ることができます。
また天正十九年には、大井川下流の志太・榛原を洪水の害から守るため、駿府城主の中村一氏と強力して大井川の治水工事に着手し、相賀赤松山を切り開いて大井川の水路を変える大土木工事を行っています(天正の瀬替え)。

 

7-4.妻の内助と変わり身の早さで栄転−家康に忠節を表明−

出世した一豊は秀吉の配属を離れ、中村一氏や堀尾吉晴らと共に関白秀次(秀吉の甥)の補佐役をつとめました。しかし、文禄二(1592)年、淀君に実子秀頼が生まれると、秀吉は秀次に切腹を命じます。当然、補佐役の一豊にも火の粉が飛び、朝鮮行きを命じられたりしていますが、なんとか難を逃れたようです。このように晩年、その奇行から家臣の信望が薄れた秀吉でしたが、慶長三(1598)年八月没。世はふたたび権力争いの動きが高まり、諸将はその政治的手腕を問われることになります。

関ヶ原合戦前の慶長五(1600)年7月。秀吉の後継を狙う石田三成は、家康の東進に参軍した諸将を牽制するため、諸将の妻子を大阪に監視しながら西軍方の確約に奔走します。悲観したガラシャ夫人が自害するなどの事件が起き、緊張が高まっていました。一方、そのころ掛川城の一豊は、上杉景勝討伐のために大坂から東へ下る徳川家康を迎えていました。その夜、監視下に置かれ一時は自害をと決意していた妻千代から、自分の身はどうなってもよいから家康に忠誠を尽くすべきことをしたためた密書が一豊のもとへ届きます。一豊は、この密書を開封せず家康に手渡しました。妻を見限る覚悟で家康への忠誠を誓い、しかも開封せずに家康に手渡すという行為で、自分に二心が無いことを表明したのでした。
また、一月前の慶長五年6月、一豊は伏見から東海道を東下して江戸城に向かう家康を、小夜の中山にある久遠寺に茶亭を建てて饗応しています。秀吉の死後、権力争いを窺う秀吉家臣諸将に対して、一豊は早くからポスト秀吉は家康であると言動に含めながら、権力の流れを家康に運ぶ手助けにもなっていたのでした。関ヶ原合戦の後、家康が秀忠と諸将の功績を論じたとき、「山内対馬守の忠節は木の本、其他の衆中は枝葉の如し」と庭前の木を指して話したと伝えられるとおり、家康に一豊の行為が深く刻まれたことは間違いありません。こうして家康が天下統一を成した後、一豊は土佐二十万石の大大名へと抜擢され、念願の一国一城の主人となったのです。

7-5.武勇の誉れから政治手腕の時代へ

いったい一豊はこのような渡世術をいかにして身に付けたのでしょう。楽市楽座や南蛮文化吸収、人質や婚姻政策で、一気に権力への階段を上りつめ非業の死をとげた織田信長。足軽から身を起こして天下統一を果たした豊臣秀吉。多感な若年時代に個性的な二人の武将に仕えた一豊は、彼らの政治手腕をつぶさに見て吸収していったのでしょう。そして時代は武勇の戦いから政治の戦いへ。どちらかというと武勇よりも官僚的能力に長けた一豊が成功したのは、時代の流れと言えるのかもしれません。慶長五(1600)年7月25日、諸将の意見を聞くため小山軍議が開かれ、この席で一豊は家康への城明け渡しを提案。諸将が同意して誓書を提出したとあります(*4)。しかしこれは一豊の創案ではなく、日頃交友の深かった浜松城主堀尾忠氏の考えでした。このような一豊を室鳩巣は「人の分別を取って自分の功に成さる事とて恨み申されけり」と言っています。一豊には、人の言を機会をとらえて功名に結び付ける才知を持つ、いわゆる「ずるい人」という評価も一方にあったのでしょう。

*4:福島正則との説有り。本文は『鶴頭夜話』を参照。

7-6.土佐鎮圧−晩年の一豊−

千代像(高知城)

土佐の国を賜った一豊の入国は、すみやかには進みませんでした。長宗我部の遺臣たちが浦戸城に立てこもって抵抗する浦戸一揆が起こり、まずは先立って弟の康豊を入国させて一揆方270人余を斬首。翌慶長六(1601)年一月、どうやら鎮静した土佐に入国しました。 一豊が土佐に入国してまず行ったのは、後に年中行事となる馬の駆初めや、相撲大会を催して民衆の不満をなだめることでした。それでも、相撲見物に来た一揆の残党70人余を捕らえて処刑するなど、飴と鞭を使い分け、巧みに国の統治につとめました。それでも入国から二年経って民心はおさまらず、滝山一揆の鎮圧などに苦慮しています。
一豊は、入国した慶長六(1601)年から河中山(こうちやま*5)城を築城しています。この工事視察の時、巡見笠、面頬、袖なし羽織り姿の一豊が、常に同じ背丈装束の五人の影武者と共に巡視したといいます。人々はこれを「六人衆」と呼び、これには多分に嘲笑が込められていたようです。このような、戦国の乱世をくぐって出世した武将とは思えない細心の警戒心は、一豊よりも妻千代が高名を成した所以ともいわれます。
一豊は土佐に入国して五年後の慶長十(1605)年、61歳で没しました。高知の日輪山に葬られましたが、千代の死後、京都の大通院に移されました。大通院の堂内には夫婦墓が並んでいます。大名の夫婦墓はきわめて稀なことで、夫妻の仲の良さを暗示しているようです。

*5:高知城と当て字したのは二代忠義から。

*参考文献 『日本の武将70山内一豊』 山本大著/人物往来社
  『掛川城のすべて』 掛川市教育委員会
  −部分「山内一豊と掛川」秦村純一著
  『歴史と旅』臨時増刊 諸国武将総覧
  『山内一豊候と掛川』 関七郎・若森英雄著/掛川市史研究会
  『山内家史料一豊公紀』  
*画像提供 (財)土佐山内家宝物資料館
  『東海道小夜の中山』 中部建設協会
  『掛川城のすべて』 掛川市教育委員会
     
 
*無断転載はお断りします。

 

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