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人物クローズアップ
第4回 大須賀鬼卵おおすかきらん(また栗杖亭鬼卵・りつじょうていきらん)99/1/15
『東海道人物志』の表紙昔、金谷宿と掛川宿の間、小夜の中山峠西麓の小さな宿場町である日坂宿に「きらん屋(木蘭屋)」というたばこ屋がありました。その障子戸には
世の中の人と多葉粉(たばこ)のよしあしは
けむりとなりて後にこそしれと、狂歌が書いてありました。この歌は白河楽翁(松平定信)の目にとまり、褒美を賜ったと伝えられています。その店の主人が大須賀鬼卵(おおすかきらん)。画や連歌狂歌をたしなむ三河生まれの文人で、日坂を終の住処に江戸の文壇で活躍した人です。
三河から日坂まで点々と
鬼卵は、延享元年(1744)河内国(大阪府)佐太村に生まれ、青年時代は伊奈文吾と名乗り、同地の永井氏に仕えた下級武士でした。絵画を好み狂歌連歌に長けた人で、のちに名を大須賀周蔵と改めました。安永8年(1779)39歳の春、妻を伴って三河の吉田(豊橋)に移り住み、画と俳諧に遊びましたが、その地で妻に先立たれました。寛政の初め頃、三島に移り三島陣屋の手代となりましたが、同九年には辞して府中(静岡)に移って須美という養女をもらい、画を生業としました。『東海道名所図会 巻五』には、彼の描いた「正月六日三島祭」の絵があります。須美が医師福地玄斎に嫁いだため、鬼卵は千日詣でに行くといったまま家を出て、少しの間遠州伊達方村(だてかたむら・掛川市)に住み、まもなくすぐ東側の日坂宿に移りました。
日坂での暮らし
寛政末年(1800)、齡60に近くなって日坂に移り住んだ鬼卵は、画を描く傍らたばこ屋「きらん屋」を営み生業としました。日坂に来てから二度目の妻を迎えましたが、文政元年その妻にも先立たれています。その初七日の夜、かつて鬼卵が師事した京都の歌人香川景樹が日坂を訪れてこのことを茶屋の女から聞いて、『中空日記』に次のように語っています。
「小夜の中山こえはてて新坂(にっさか)にとどまる。此の里に大須賀とて世に知られた翁あり、また鬼卵と号す。茶汲み女に、此のをぢ猶たいらいかなりやと問へば『此さき一日年此の妻におくれてのち、こよい初七日のたい夜に待り』といまわしきことをいう。 もろともに 老いての後のわかぐさの つまのわかれは いかにかなしき 大日本人名辞書にいう『鬼卵は小説家なり、日坂の人、栗杖亭と合す。狂歌に秀でる』云々。」
長松院大須賀鬼卵の墓享和3年(1803)、鬼卵57歳のとき『東海道人物志』という本を著しています。品川から大津まで、53の宿駅ごとに、その地に住む学者、文人、諸芸に秀でた人々を列記した実用書で、京都の菊舎、大阪の播磨屋、江戸の須原屋という三都の書林から出版されていることから、売れ行きのよい本であったようです。東海道を旅する文化人には便利な人名録で、三河から日坂へ点々と移り住んだ経験と才覚が活かされた書物といえるでしょう。
文化4年に記した『蟹猿奇談』以降は、主に読本(よみほん)に筆をふるい、代表作は『新編復讐、陽炎之巻』(文化4年)『長柄長者黄鳥墳』(同8年)『勇婦全伝、絵本更科草紙』(同8年〜文政4年)など、22編を出版し、中には歌舞伎として三都で上演されたものもありました。
鬼卵は日坂に居している間、寺子屋を開いて近傍の子弟らに読書や習字をおしえており、鬼卵の子弟には岡田無息軒(良一郎)も含め数十人に及んだといいます。また、鬼卵の日坂での暮らしは、掛川の庄屋大庭代助の援助によるともいわれています。鬼の卵から仏の卵に
鬼卵は晩年禅学に傾倒し、長松院14世密仙和尚に参禅して仏卵と号しました。長松院は、曹洞宗寺院では掛川で最も古く文明3年(1472)開山の寺院で、鬼卵の筆による『十六善神』『日の出とからす』『十四世肖像』などの絵が残されています。齡83歳で文政6年2月23日に卒し、長松院に静かに永眠しています。
現在寺院南側の山にある鬼卵の墓は、参拝する人が多くなったため、平成11年2月の長松院御開山忌にあわせて山門近くに墓を移転する法要が行われます。
*参考文献 『東海道と人物』 杉山元衛・山本正著 静岡新聞社発行 『静岡県歴史人物辞典』 静岡新聞社発行 『ふるさと百話11』 静岡新聞社発行 *取材協力 長松院
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