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人物クローズアップ

第5回 牧之原開墾の功績者2−仲田源蔵なかたげんぞう 99/3/15

仲田源蔵(静岡県茶業試験場蔵)

 明治維新の頃、荒れ地であった牧之原の開墾に期待を懸けたのは士族ばかりではありませんでした。明治3年、大井川の川越え制度が廃止されると、身体ひとつで暮らしてきた川越人足たちも職を追われ、潰しがきかない仕事をしてきた人足たちは新しい職を探そうにもみつからず、中には自暴自棄になって危ない事を口走る者も少なくなかったといいます。

私財を投じて直訴
このとき、政府に川越人足たちの救済を嘆願した人物が仲田源蔵でした。当時、廃藩置県直後で静岡県は単に一地方機関でしかなく、県に対する嘆願では意味がないと感じた仲田源蔵は、御法度であるにもかかわらず自分の田地を密かに売って70両の金をつくり、政府に直訴するため東京に向かいました。この時、源蔵はマゲを切り、家に遺して上京したといいますから、並々ならぬ決意での真剣な直訴。嘆願を受けた民部省駅逓司は、熱意に折れて金谷へ調査に赴きました。
この仲田源蔵の必死の運動により、明治3年に島田郡政役所から丸尾文六、笠原八郎次、笠原甚四郎、鈴木徳右衛門他が開墾の世話人となるよう申し渡され、開墾の準備が始まります。あけて明治4年、金谷方東西荻間村、金谷方御林跡、島田方の三地区に川越人足への救助金が配分され人足たちの開墾が始まりました。

人足たちの開墾はじまる
ところが、農家であっても重労働の開墾、しかも牧之原は雑木林で道もなく条件がすこぶる悪いところで、生まれてこのかたクワを持ったこともない人足たちにつとまるはずもありません。川越人足100戸が入植しましたが、不安に思った人足67戸はもらった金十両を元手に商いを始めるなどして開墾からはずれ、残ったのは33戸でした。この33戸を指導し、のちに大茶園の基礎を築いたのが丸尾文六です。

仲田源蔵という人
仲田源蔵は、天保13(1842)年金谷町に生まれ。身長180センチ、体重92キロの偉丈夫であったといいます。17歳で江戸の商家へ奉公に出て帰郷後に家業の醤油屋を継ぎました。金谷宿川越し人足代表として嘆願に上京した当時、権蔵は29歳という若さであったにもかかわらず人足たちの世話をやき、私財を投じ借金をしてまで手厚い援助の手をさしのべたのです。若年にもかかわらず人足たちから全権を移譲され、その人望と熱意で開墾の道を開いた仲田源蔵。牧之原開墾の歴史を語る上で忘れてはならない人物です。

 

*参考文献 『牧之原開拓史考』 大石貞男著 静岡県茶業会議所発行
  『東海道小夜の中山』 中部建設協会発行

 

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