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第7回[お茶] 静岡茶の始祖−聖一国師しょういちこくし 99/7/15

聖一国師像
提供:静岡鉄道(株)

 聖一国師は鎌倉時代の高僧で、静岡茶の始祖と伝えられている人です。聖一国師は宗国より仏書千余巻とともに茶の実を持ち帰り、生誕地である駿河国安倍郡三和村足窪(現足久保)の地にそれを蒔いたと伝えられています。

7-1.栃小僧が国を代表する僧侶に

五歳で仏門に

 聖一国師は建仁二(1202)年駿河国阿倍郡大川村栃沢(現静岡市)に生まれ幼名を龍千丸といいました。たいへん聡明な子で、二歳にして人の言葉を聞き分け、年を重ねるごとにその行いや言葉は異彩を放っていたといいます。投じは僧侶が外国文化導入の先駆者であり、あらゆる新知識をもって幾多の宮廷人の帰依を受けていたことから、平家一門であった両親は龍千丸が五歳の時、その一生を久能寺に托しました。
  五歳にして久能寺の小僧となった龍千丸は、沙弥(しゃみ)を辧円、字名を円爾(えんに)と呼ばれました。『聖一国師年譜』によると

師登リ久能山投ス尭弁ノ室ニ即チ授ク倶舎頌ヲ而誦ス之ヲ
(円爾は久能山へ来てすぐに『倶舎頌(くしゃのじゅ)』を読んだ)

と記されており、他に『元亨釈書』などにも栄西は八歳の時、道元は九歳の時、円爾は五歳の時に『倶舎頌』を読んだと記されています。当時故郷の栃沢で円爾は「栃小僧」(とちこぞう)と呼ばれていました。

国内での修行時代

 承久元(1219)年円爾18歳の春、師尭弁(ぎょうべん)の許しを得て、当時名山として知られた江州園城寺(おんじょうじ・三井寺)大本山に入山。間法修行を重ね、半年で南都(現奈良)の東大寺で受戒を受け、正規の出家と認められました。その後各地の名刹で修行を重ね、貞応二年、栄西の法弟として知られた栄朝のもとで修行するため、友僧神子栄尊と共に上野国長楽寺に入門。栄朝は円爾の非凡な才覚を見て取り、蘊畜(うんちく)のすべてを授けました。一年を経ずして故郷久能山へ帰り一年を過ごすと、さらに仏法の奥義を求めて政治の中心地である鎌倉へ旅立ちます。しかし円爾は鎌倉で寄寓した寿福寺で開いかれていた講座に疑問を抱き、「もはや日本国内の名僧を訪ね歩いても得るものはない」と渡宗の志を抱くようになり、すでに友僧栄尊が渡宗の準備をしているという長楽寺の栄朝のもとに帰りました。

禅知識を求めて渡宗

 時は四条天皇の天福元(1233)年、円爾32歳の春。栄朝から渡宗を許され、栄尊と共に九州へ向かったものの出航を待って一年以上を博多で過ごします。やがて嘉禎元(1235)年の春、宗国への渡航が実現しました。
  宗国において禅知識の志に燃えた二人は、阿育王山廣利寺、天童山を詣でるなど勢力的に修行した後、杭州都下にて天竺の僧栢庭月公(はくていげっこう)から諸種の経文を授けられました。二人は名山霊地を遍歴し、北山の寧退耕という僧に会見した折「径山の萬寿寺で宗師師範無準師範(ブシュンシバン)という方が大法輪を説いておられる」とおしえられ、すぐさま径山に赴き無準禅師の門下となりました。無準禅師のもと円爾は求法のため刻苦修行をつづけ、その明敏な頭脳と非凡な資質は同門の名僧たちの中にあっても傑出していたと伝えられています。
 こうして萬寿寺の門に身を投じて二年の歳月が流れ、円爾36歳の秋、無準禅師から印可証明を授けられるに至ります。無準禅師より、南岳恵譲禅師から無準禅師五十四世に加えて円爾に至るまでの宗派の図、無準禅師の祖密庵傑禅師より親授の法衣、竹杖、楊技方会禅師の伝法衣、『仏法大明録』の一部など貴重な品々を手渡され、帰国して広く禅を説くよう勧められます。
 こうして 宗において数々の知識と仏法の教えを身に付けた円爾は、仁治二(1241)年五月一日に船出。諸宗の教典、儒書、易書、漢方の医薬書など広範多岐にわたる貴重な書籍千余巻を持って帰国の途につきます。

7-2.知識人として活躍

中世日本の要人たちとの関わり

東福寺

 仁治二(1241)年七月に帰朝した円爾は、宗で共に修行した湛慧の崇福寺、長楽寺で同門であった栄尊の萬寿寺、博多においては太宰少弐藤原資頼(すけより)が建立した後の承天寺などを開山。九州を中心に禅を広め、その布教伝法は寺々を通じて各階級におよび、円爾の法徳は京洛まで知れ渡るに至りました。寛元元(1243)年二月、藤原(九条)道家公の熱心な請いに応じて、円爾は博多から京へ上りました。道家公は円爾を建立中であった東福寺の月輪別殿に迎えて日ごとに法を問いました。円爾の幅広く奥深い禅道の教えに感激した道家公は法位を与えようとしましたが、円爾が固く辞退したため、聖人第一者との意から親しみをこめて「聖一和尚」の四字を揮毫してこれを円爾に贈りました。
  聖一和尚は道家公の庇護のもと、その広く深い知識を公家社会において浸透させ、亀山上皇はじめ多くの要人たちを受戒し、朝廷からも厚い帰依を受けるなど宗教的な権威を高めていきます。また、建長元(1249)年正月には、鎌倉幕府の北条時頼の懇請で建長寺建立の地鎮祭を行っています。以来京洛の地と政治の中心地鎌倉の禅門両方に多大な影響を与え、国を代表する知識人として政治や外交、文化など多方面に活躍しました。

幅広い禅知識と宗国文化を残して示寂

聖一和尚遺偈

 いよいよ建長七(1255)年の夏に東福寺が完成し、聖一和尚は東福寺大法堂において盛大荘厳な開堂の盛儀を行いました。東福寺を開山した聖一和尚は、渡宗の折に手に入れた書籍を東福寺普門院の文庫に納め、大陸で得た知識をもとに国内寺院における礼式の基礎を築きました。この東福寺建立により聖一和尚の名はますます全国の僧俗を問わず広く世間に知れ渡ることとなり、聖一和尚は集まる人々に対して禅道を懇切に教え導いたといわれます。晩年、病を覚えるときも勤行を怠ることなく続け、自らの禅知識の基礎を後世仏教界を導く標となる三教(仏儒道)の所蔵書籍目録『典籍目録』一巻を著し書庫に備えました。このように聖一和尚はわが国の宗学導入の先駆として偉業をつくし、弘安三(1280)年79歳のとき常楽寺にて示寂。その没後応長元(1311)年、円爾の功徳を嘉し花園天皇から国師の号を賜りました。

7-3.聖一和尚とお茶

 聖一国師の茶に関する文献は、『東福寺誌』に「国師の駿河穴窪の茶植え…」とあるほかに見るべきものはありません。伝えられるところによると、寛元二(1244)年に長楽寺へ栄朝を訪ねた後、駿州の故郷栃沢に帰り着いた師が、母への土産として宗国から持ち帰った茶の種子を栃沢から一山越した足窪村へ播いたといわれています。足窪に植えられた茶は、足久保川沿いの山あいの風土に適して広く各村に普及し、質も向上していきました。後世、御用茶の生産などによって足窪の村はたいへん豊かになり、聖一国師を茶祖とあがめるようになります。
 また、聖一和尚が宗国から持ち帰った多くの書物の中に、日本の茶の湯の根源をひらいた『禅苑清規十合(ぜんおんしんぎ)』一冊がありました。「清規」の意味は、禅院では茶礼をふくめて僧侶の守らなければならない行儀作法のこと。喫茶喫飯の儀礼が含まれるこの書は、わが国に後世花開いた茶の湯の文化の根底を説いた書ともいわれます。

 現在静岡市内に茶業関係者が建立した茶祖堂(臨済寺内)があり、聖一国師の木像が安置されています。毎年四月下旬には新茶を献上して茶業発展を祈願する献茶式が行われ、今も多くの茶業者から敬仰されています。

 

 

*参考文献 『静岡茶の元祖 聖一国師』 静岡県茶業会議所
  『聖一国師伝』 大石森太郎編 聖一国師伝発行所
  『郷土茶業史覚書』 川原崎次郎編集 相良町教育委員会
  『静岡県茶業史』  

 

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