現在、日本各地に広がる茶園の8割近くを「やぶきた」品種が占めています。この茶の優良品種「やぶきた」を選抜した功労者が杉山彦三郎翁です。氏の持論は「良い樹から良い芽を採って良い茶をつくる」。今ではあたりまえのこの説が理解されたのは、やぶきた発見から半世紀余後のことでした。
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杉山彦三郎氏
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生い立ち
杉山彦三郎は、安政四(1857)年、安倍郡有度村(静岡市)に生まれました。父は造り酒屋のかたわら漢方医を営んでいましたが、体の弱かった彦三郎は、家業は弟にまかせて農業をはじめました。彦三郎が農業をはじめた明治初頭は茶業の勃興期。自ら山林原野を開拓し、20歳までに3ヘクタールの茶園を造成しました。この頃の彦三郎氏は、生葉を摘んでもそれを製茶する技術がなく、かといって茶師を得られず困っていたといいます。加えて、粗悪茶を造りながらも安倍郡茶業組合の幹事を勤めることとなり、不正茶を取り締まるこの役職に就いたことは、さらに困り果て恥じ入りもしたと、後に述懐しています。
品種の違いを発見
製茶の研究にあたっては、勧農局の多田元吉、支那人胡秉樞らにつき、緑茶、紅茶の製造を学びました。また、明治10年頃、遠縁にあたる小笠の茶師、山田文助を自宅に招いて製茶伝習所を造りました。
文助は、自ら揉む見事な茶を「天下一」と称し、これを造るには上手な茶摘みに摘ませた軟い葉のみを選別しなければなりませんでした。彦三郎は文助を同伴して茶摘みをしましたが、文助の満足する生葉は茶園でなかなか見つかりません。良い芽を摘むために何日も茶園を歩いているうちに、彦三郎は、摘んだあとに硬化する葉もあれば、軟芽でいる葉もあり、茶樹には発芽時期、芽の具合や色合いに差異があることに気付いたのです。
あだ名は「イタチ」
早・中・晩の区別、さらに良い樹と悪い樹があることに気付いた彦三郎は、良い芽を摘むにはどうしたらよいか思案しました。そこで、良質な芽が出る茶樹から実を取って捲いてみますが、すべて良い樹ができるわけでもない。また、人から継ぎ木が良いと聞けば試みても、台木から芽が吹いてしまう。彦三郎は品種選定や改良について学問的基礎知識がないまま、一つの結果を得るために何年もかかる試験を繰り返し続けたのでした。
良いと思った品種を植えては失敗する彦三郎を見て、人々がつけたあだ名は「イタチ」。品種改良という概念が無い時代でしたから、他家の茶園に入り込んで茶樹を探して這い回る姿を、周囲は道楽、変人と笑ったといいます。当時は製造技術重視で、日本茶の伝統は混植によって良い茶が生産されると考えられていましたから、単品種製造を認める者は無く、品種改良に没頭する彦三郎は異端視されていたのです。
杉山彦三郎略歴
年齢 |
年 |
できごと |
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安政四年(1857) |
七月五日阿部郡有度村(現静岡市国吉田)生 |
20 |
明治10(1877) |
多田元吉らに師事し山田文助をホイロ頭に招く
品種改良事業に着手 |
25 |
明治15(1882) |
古庄戸長役場勧業委員当選 |
27 |
明治17(1884) |
茶業組合創立に基づき幹事長就任
茶業取締所集会員当選 |
32 |
明治22(1889) |
阿部郡茶業組合有度村選出茶業委員就任 |
33 |
明治23(1890) |
有度村村会議員当選 |
36 |
明治26(1893) |
静岡県議会議員当選(同29年退任) |
38 |
明治28(1895) |
地方青年教育の必要性を感じ、有修学舎設立
同36年私立有度農業補修学校創設 |
41 |
明治31(1898) |
茶業組合総合会議員当選 |
42 |
明治32(1899) |
高林式粗揉機発明を受け、機械製茶の試験開始
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44 |
明治34(1901) |
阿部郡有度村谷田に水力応用機械製茶工場新設 |
46 |
明治36(1903) |
有度村長当選(同37年退任) |
47 |
明治37(1904) |
静岡県茶業組合総合会議所議員当選 |
50 |
明治40(1907) |
茶業中央会議所・生産改良調査委員嘱託 |
51 |
明治41(1908) |
やぶきた発見 |
52 |
明治42(1909) |
阿部郡茶業組合製茶研究所設立時理事 |
52 |
明治43(1910) |
同所を静岡県茶業組合総合会議所東部研究所として引継 |
56 |
大正2(1913) |
有度村会より村治功労者として感謝状銀盃受領 |
58 |
大正4(1915) |
茶業組合中央会議所試験茶園監督嘱託(有度村谷田) |
63 |
大正9(1920) |
阿部郡茶業組合長当選 |
64 |
大正10(1921) |
東洋輸出品博覧会総裁従三位勲三等、功労賞 |
66 |
大正12(1923) |
静岡県茶業組合総合会議副議長当選 |
67 |
大正13(1924) |
試験茶園廃止退職に際し会議所会頭より感謝状受 |
71 |
昭和3(1928) |
静岡県知事従四位勲三等表賞 |
73 |
昭和5(1930) |
昭和天皇御巡幸に功労者として列立拝謁 |
77 |
昭和9(1934) |
谷田試験地を県に明け渡し |
78 |
昭和10(1935) |
静岡県茶業組合連合会議所特別議員任命(同13年退職) |
84 |
昭和16(1941) |
有度村国吉田自宅にて死去 |
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やぶきた発見
そんな人々の嘲笑をよそに、彦三郎は品種研究を続けました。そして明治25(1892)年の「晩一号」という品種を皮切りに、彦三郎は生涯で百種に及ぶ品種を世に送りだしています。中でも「やぶきた」は今でこそ全国の茶園の8割を占める優良品種ですが、優良性が認められ普及するには、発見から実に半世紀の歳月を要しました。
「やぶきた」は、静岡市谷田の試験地に隣接した中林という地区の、竹薮を開墾して播種した茶園の中から、明治41 (1908)年に2本を選抜し、北側のものを「やぶきた」南側のものを「やぶみなみ」と命名したものです。
試験中の茶樹が薪となる
前述のように品種改良の成果は、すぐに世に認められたわけではありません。時代は未だ品種改良に対する理解がなく、彦三郎は知事や茶業先駆者たちに品種改良の必要性を力説し、実践して理解を求めました。
彦三郎が50歳を過ぎた明治43〜44年(1910〜11)頃、初めての理解者、茶業中央会議所会頭大谷嘉兵衛氏と出会います。品種改良の必要性に理解を示した大谷氏は、二町七反歩の土地を自費で買い上げて中央会議所へ寄付する形で谷田試験地として提供し、彦三郎の品種改良事業を激励しました。
この試験場で品種研究に従事した昭和3〜9年の間、彦三郎は単品種製造の茶を造り詳細に記録しています。品種別に品質、特徴、収穫量を知ることで、早・中・晩の必要性を証明し、茶業における品種改良の必要性を解こうとしたのです。
ところが昭和二年、大谷氏が会頭を辞すると彦三郎は再び孤立し、品種改良への投資を快く思わない会議所から地代を請求されることになります。とうとう昭和9年、会議所は試験地を含めた一切を県に委譲。彦三郎は引き渡しを余儀無くされました。このとき、二十数年の研究成果である茶樹はことごとく抜根され、山積みにして焼却されてしまったそうです。
彦三郎の人生において、この時ほど辛いことはなかったでしょう。氏が77歳の時のことです。
しかし、経済的支援を失っても彦三郎の品種改良への情熱が失せることはなく、安倍郡美和村に自費で模範茶園を購入し、近隣農家の青年を指導しながら早・中・晩の品種試験を再開しました。
農業青年の育成と地域貢献
氏の茶業への貢献は、品種改良だけに留まりません。77歳にして試験地を追われ、自園で研究を再開した折りには、近隣の青年に手伝いを請いました。後に、青年たちを使ったのは、後世品種改良の方法を伝えていく必要を感じてのことだと述べています。
また、明治32年、高林式粗揉機が発明されて、これに動力を応用した機械製茶の試験を開始し、明治34年には阿部郡有度村谷田に日本初の水力を応用した動力機械製茶工場を新設しました。他にも、郷土を貫通する巴川の改修工事、茶園の石垣造成など、数々の先進的事業を行い地域農業に貢献しました。
品種選定の苦心
彦三郎の品種選定の苦労は並々ならぬものでした。県下各地は言うに及ばず、埼玉、九州、沖縄、朝鮮まで行脚し、これはと思った茶樹に出会えば採集して持ち帰り試験地に栽培しました。旅先には必ず水コケを持参し、それが無いときには大根に刺して枝をもち帰ったそうです。
試験地では昼夜を問わず茶園を巡り、株にかがみ込んで枝を見、生葉を噛んでは良種の目星をつけて品種選定をし、それを圧条増殖しました。選定した茶樹も、成長するに従って株の張り具合や葉の形状に個性が出るため、理想的な茶樹を見つけることは苦心の連続だったといいます。増殖方法も学術的な知識がない中で試行錯誤して見つけた方法で、現在も氏の選び出した取木法での苗木生産が行われています。
適地適種を称揚
彦三郎は「茶樹にも適地があり、その地方に最も適する品種を選ぶことが経営上最も留意すべき点である」と述べています。また「喫茶養生記にも八十八夜の茶が薬になると書いてあるわけでもなく‥‥」と皮肉を込めて言いながら、良茶は時期を問わず高価であるべきとも説き、苗木というと誰もが早生を欲しがることを戒めています。品種研究を始めた二十代の頃より「早・中・晩の区別をして摘採するのが良質茶ができ、長い間よい茶を製造し得るのだから、経済的効果も高い」が氏の持論であり、品種研究の目的でした。研究成果の一端は認められながらも、時の流れは、彦三郎の多面的構想とは別の道を進んできたのかもしれません。
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やぶきた原樹
静岡市谷田
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やぶきたの隆盛を見ず他界
杉山彦三郎翁は、60余年に及ぶ品種改良の功績を残しながら、「やぶきた」の隆盛を見ることなく、昭和16年2月7日の寒い朝、84歳で生涯を閉じました。
明治41 (1908)年に発見された「やぶきた」は、23年後の昭和6年頃になって、その樹勢や品質の優良性を試験的に認める結果が出されました。後年ご子息は、「選定した数種の国立試験場による審査表があるはずだ」との父の遺言‥‥と述べていますから、最期まで普及を切望しながらも目にすることができなかった彦三郎は、さぞ残念であったことでしょう。
その後も戦乱や戦後の食料増産など時代的な事情から、本格的に普及をみたのは戦後になってからのことです。早場で霜に強く収穫が安定していることから、「やぶきた」は昭和30(1955)年に奨励品種に指定され、茶輸出、改植新植ブームに乗って爆発的に普及しました。
96年、全国の「やぶきた」栽培面積は19,272ヘクタール。全国の8割、静岡県内では9割のシェアーを占め、それまで植えられていた在来種に取って代わりました。
「やぶきた」の原樹は昭和36年に天然記念物に指定されました。県立美術館北側入口に移され、杉山の顕彰碑とともにあります。樹は今も有志によって管理され、大人の背丈をはるかに越える樹冠は今も濃緑の葉をいっぱいに茂らせています。静岡城趾駿府公園には、氏の遺徳を慕う人々が建立した彼の胸像が立てられています。
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