[涼み松]掛川市小夜鹿字小夜鹿
白山神社からゆるやかな下り坂を250mほど下った南側に、涼み松広場があります。ここは、東海道の傍らにあった大きな松を偲ぶ所です。往時は峠を歩く旅人たちに木陰を提供していた松のことを、ここで詠まれた芭蕉の句「命なりわづかの笠の下涼み」にちなんで涼み松と呼ぶようになり、周辺の地名も「涼み松」の字名が名付けられています。松の木は代替わりをして若い木が植えられています。
[芭蕉の句碑]掛川市小夜鹿字小夜鹿
涼み松公園の一角に芭蕉の句碑があります。
この句は、延宝四年(1676)芭蕉が伊賀上野に二度目の帰郷した旅で、小夜の中山を通った夏の日に詠んだもの。延宝六年(1682)『 江戸広小路』に入集されています。
芭蕉と小夜の中山
芭蕉は晩年、奥の細道の旅でも、小夜の中山を連想した句を残しています。 元禄2年8月『奥の細道』旅の途中、越前敦賀でのこと。名月の夜に越の中山(木目峠)で、小夜の中山を思い出して、西行の「命なりけり」を連想したもの。
中山や越路も月はまた命
その昔、佐夜の中山で西行は「命なりけり」と詠ったが、いま私もこの美しい越の中山の月を見ていると、思わず「命なりけり」の感慨をもよおす。芭蕉もまた、旅の人生を振り返っているのでしょうか。
[妊婦の墓]掛川市小夜鹿字小夜鹿
涼み松の向かい側の茶畑の中には、蛇身鳥伝説にまつわる妊婦の墓があります。妊婦とは、三位良政卿と月小夜姫との間に生まれた娘のこと。名を小石姫といい、蛇身鳥一族の話を知り、悲しみから松の木で首をつったと伝えられています(母親が姫を嫁がせようとしたところ小石姫がすでに計之助の子を宿していることがわかり、悲嘆に暮れて亡くなったとの説もあり)。墓石には「往古懐妊女夜泣松三界万霊・・・旧跡」と刻まれています。
妊婦の墓と夜泣き石
明治〜大正期の歴史家後藤粛堂によると、夜泣き石伝説は江戸時代中期のもので、この妊婦塚と夜泣き松の伝承が旅の僧によって路上の石と結びつき「夜泣き石伝説」になったといいます(郷土雑誌『駿遠豆』)。
関連リンク
●昔ばなし「邪身鳥物語」 ●昔ばなし「夜泣き石」
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