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タイトル  

[ゆるやかな坂道]掛川市小夜鹿

涼み松から西は、まっすぐでゆるやかな下り坂が続きます。南には火剣山、北に粟ヶ岳。茶園の間を縫う道には民家もまばらで、遠く連なる南アルプスの山々を眺めながら、喧騒を離れてしばし旅の静けさを満喫できます。

涼み松〜夜泣き石跡の道
涼み松から夜泣き石跡までの道

[夜泣石跡]掛川市小夜鹿字沓掛

夜泣き石は江戸末期まで、広重の浮世絵にあるように東海道の真ん中にありました。明治になって明治天皇の東幸にあたって別の場所に移されました。ここには、江戸時代に夜泣き石のあった場所として碑が立てられています。

 

関連リンク

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夜泣石跡
夜泣石跡

[広重絵碑]掛川市小夜鹿字沓掛

小夜の中山峠には「日坂」を描いた二つの広重絵碑があります。
夜泣き石跡の向かい側にあるのは、峠の道の真ん中に鎮座する夜泣き石と旅人を描いた有名な作品「宝永堂版東海道五十三次-日坂・小夜の中山」の絵碑です。

広重は「狂歌入東海道」「人物東海道」など多くの東海道ものを残していますが、小夜の中山といえば夜泣き石が題材となっており、江戸時代小夜の中山が旅人に印象的な名所として有名だったことがわかります。
広重版画のモチーフとなった当地で、江戸時代の旅のワンシーンを切り抜いたような浮世絵に出会うと、歴史の道を歩くのが楽しくなります。

 

安藤広重(1797〜1858)

江戸末期の浮世絵師。江戸火消童心安藤源右衛門家に入婿。歌川豊広の門人で、はじめは役者絵や美人画を描いていました。文政後期より風景画に手を染め、新進画家だった36歳の頃、天保4(1833)年から翌年にかけて、幕府が朝廷へ馬を献上する行列に参加。そのときの写生を元に大判55図からなる連作道中版画を完成させ、僊鶴堂と保永堂の合版で出版した大作が『東海道五十三次』です。庶民の暮らしの一コマを生き生きととらえた広重の画風は江戸の庶民から受け入れられ、一躍風景画家として名をなしました。この『東海道五十三次』発表は、北斎の『冨嶽三十六景』の完結と重なり、風景版画が江戸で人気を競い合って技術を高め、後世美術史に輝く名作を残しています。斎号:一遊斎、一幽斎、一立斎

広重絵拡大
宝永堂版東海道五拾三次-日坂(部分)
広重絵碑日坂
広重絵碑

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