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地名のお話
第11回 掛川城下の地名 2000.04.17
慶長の初期、山内一豊は、秀吉の命を受けて掛川城を築城し、その城下町に本格的な都市計画を実施しました。城下町は逆川を利用した境掘に囲まれ、東海道の七曲がりによって敵の侵入を防ぐ構造でした。この都市計画の一環として、城下町を生業ごとに区画して住まわせたため、肴町、塩町、紺屋町などの町名が今も残っています。 当初の城下町は、表通りに木町(喜町)・仁藤町・連雀町・中町・西町、裏町に塩町・肴町・紺屋町・研屋町、横町に瓦町と十の町から成り立っていました。その後、堀の東側に町並みが発展し、元和六(1620)年新町が加わり、文化三年には、下俣町、十九首町まで加わって、掛川城下町は栄えていきました。 |
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新町しんまち 新町は七曲がりの最初の角を含む町で、もとは掛川宿東入口木戸の外側にありました。北側の仁藤村と南側の上張村の入会地で、東海道に沿って家並みが栄えていきました。町名は、掛川城下町が伝馬宿として発展するに従って新しい町として加わったため「新町」と呼ばれたものと思われます。『掛川市史』によると「元和六(1620)年申十月に新町として一町に認められ加宿」とされています。 |
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木町(喜町)きまち 木町は、山内一豊が城下町を形成したころからあったと思われる町で、もとは材木を取り扱っていた町だったので「木町」と呼ばれました。町名を「喜町」としたのは、縁起かつぎ。文政元(1818)年から天保十四(1844)年にかけて三度の火災に見舞われたため、藩庁の許可を受けて、弘化元(1844)年正月二十七日に、町名を「 喜町」と改めたとの記録が残っています。 しかし、文化二年頃に編纂された『掛川誌稿』によると、「昔、材木屋は、木町のみにありし故名づく、今は西町などにありて、木町にはなし」と書かれており、材木町の「木」の字は改名の頃すでに材木とは縁の無いものとなっていたようです。 |
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仁藤町 にとうまち・笠屋町かさやまち 仁藤町は、掛川の「七曲がり」の三つめの角を曲がった所が町の入口で、もともとは二藤村でした。それを山内一豊が文禄から慶長初期に城下町を形成した折に、東海道沿いを一町としたもので、そのときに笠屋町、仁藤横町を含めた大きな町となりました。仁藤の名は、中世の書物に「日東」とも「二藤」とも書かれていて、懸川以前から大きな村であったようです。 仁藤町の一部であった笠屋町の名は、当初眞如寺の東側の低地に菅を植え、菅笠を編んで生業とした人々が住んでいたことからついたようです。 笠屋町の入口の四つ辻(七曲がりの四つめの曲がり角にあたる)は「辻の札」と呼ばれ、掛川の高札場があったところです。 |
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連雀れんじゃく
連雀は全国各地に残っている地名で、「連雀」とは荷物を背負う時に使う「背子(しょいこ)」のこと。背子の木が付き出した部分が、雀の止まるとまり木に似ていることから、背子のことを全般的に連雀と言い、昔の行商人は、この背子に荷物をくくり付けて各地を歩いたため、後には行商人のことを「連雀衆」と呼ぶようになったとの説。または、一般に美しい渡り鳥のことを連雀といい、渡り鳥のような移動行商人をさすともいいます。各地の城下町に連雀町があるのは、この連雀衆が集住してつくった町を連雀町と呼ぶようになったためです。 『掛川誌稿』には、「昔飯田彦五郎という者ありて、連雀座の御朱印を賜りて商いし故、連尺町と称せしなり、……(中略)。この連尺町といふは、近くは周智郡の森町にあり、浜松駅にもありしが皆文書は亡ぶ…」とあります。 |
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中町なかまち・西町にしまち
中町は、宿の中央にあることを意味します。中町には、五十三次の伝馬宿としての中心的役割を果たした問屋場がありました。 西町には「十王橋」という土橋があり、橋の手前には宿の西入口の門がありました。十王橋は、城下町の西境堀として掛川宿を守る役割を果たしていました。ちなみに西町には十王町が付属しており、十王の名は十王堂があったことから付いたものです。 |
*参考文献 『ふる里かけがわ第7集』 部分:掛川宿の今昔/増田忠美著 『掛川誌稿』
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