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地名のお話
第12回 曽我の地名 2000.06.15
掛川市街から逆川を2kmほど南西に下った地区を曽我といいます。「曽我」の呼称は「素賀(スガ)」が起因で、素賀とは須賀であり逆川や原野谷川、垂木川の自然流水の影響で自然堤防が成り立ち、その丘陵の上に人々が土着して農耕生活を営みながら開発されたところで、縄文や弥生時代の遺跡が多く発掘されています。比較的大きな川の合流点であり街道を含む土地柄から、曽我地区には、土地の地形的特徴を現す地名や領土支配に関わる地名が残されています。 |
曽我の東端には「和光」と呼ばれる地域があり、現在は和光橋の名が残されています。和光は、鎌倉時代以降の東海道と掛川市を蛇行しながら西進する逆川の接合点にあたり、次のような地名にまつわる伝説が残されています。 その昔。掛川大池の上屋敷の寺院に殊勝寺があります。その裏山の原に一字のお堂がありました。そのお堂のほとりに立つと掛川の町並みや岡津の原までが一望できるところです。そのお堂にはお薬師さまが祀られていて、近所の人たちの息災・病難の霊験あらたかで、岡津の善光寺の阿弥陀様と同様に信仰の中心でした。その時は堂守りもいて繁盛しておりました。ある日の夕方、この原の上から岡津の原下から東を眺めていた六部が、柔らかい光に包まれて樹木や民屋が浮かび上がる様を見て極楽浄土を見るようだと叫び、『あすこが和光よ』と言ったのが始まりだと伝えられています。 (その殊勝寺の裏山の原では、今でも布目瓦が出土してお堂のあったことを伝えています。 ) また、一説には和光は「ヤコウ」と呼ばれ「夜光」と記されています。その伝説も原の薬師さまをここから拝んだというものです。 和光について地形の面から地名の起源からたどってみると、「矢向→夜光→和光」の転訛が考えられ、矢向が原形で、矢壺、八壺、矢口、矢野口などともつながります。これらは段丘崖の根元などから湧水の穴を意味するものです。この説からの地名であれば、この和光にも断崖に清水が湧くところがあって人々の喉を潤していたものと想像されますが、大正十四年の河川改修で流水域が変化し、残念ながら現在ではその面影はありません。 |
和光橋を渡ると「高御所」に入ります。高御所は群家のあったところ、または貴人の故居があったところであると言われています。また、高御所の起源を古語から調べると「岩が根の凝(コゴ)しき山」のことで、岩がゴツゴツと重なって険しくこり固まったところをコゴショ、コウゴウショと呼称したらしく、地形的な名称とも考えられます。 |
「領家」は、素賀国の国造が置かれた神武帝の初期から美志印命の支配下に置かれ、出雲族の勢力である物部氏の一族が君臨していたことが『旧事記本紀』に記されており、領家の地名はその支配に起因します。
当時の統治者は八幡橋を中心にして柳原の小字に本拠地を置いたもので、この地を境に西を西曽我、曽我後、曽我前と呼ぶ地名が残されています。 |
「梅橋」は、現在の袋井市と接する曽我地区西端の逆川と垂木川の合流する付近の集落で、古くは梅林村と称したといいます。『掛川誌稿』ではすでに「梅橋村」となっており、梅橋ノ名ハ河南ニアレハ、梅樹ナドアル所ニ橋アリテ名ヲ得タルニヤ…とあります。 |
「徳泉」は逆川と原野谷川の間に位置する村です。この地名は、二つの川が奔流する地点で水害が多かったことに由来するものと思われます。この地名をだとる手がかりのひとつに、戦国時代の遠江国佐野郡曽我荘のうち『正林寺文書』(小笠町)天文 二十(1551) 年九月二十三日の今川義元判物に「曽我庄徳富内」の名が見られます。 |
この他に細田(斎田)、沢田、岡津、原川、黒田の地名があります。
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*参考文献 『ふる里かけがわ第7集』 部分:曽我の地名について/石野武文著 『掛川誌稿』
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